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英語教育セミナー最終レポート
We Shall Overcome
樋口 悠里
教育学部英語教育講座3年1011016409
1.
We shall overcome
We shall overcome
We shall overcome some day
CHORUS:
Oh, deep in my heart
I do believe
We shall overcome some day
2.
We'll walk hand in hand
We'll walk hand in hand
We'll walk hand in hand some day
CHORUS
3.
We shall all be free
We shall all be free
We shall all be free some day
CHORUS
4.
The whole wide world around
The whole wide world around
The whole wide world around some day
CHORUS
5.
We are not afraid
We are not afraid
我は打ち勝つ
我は打ち勝つ
我は打ち勝つ いつか
コーラス:
心の中深く
信じている
我は打ち勝つ いつか
我らは手と手を取って歩く
我らは手と手を取って歩く
我らは手と手を取って歩く いつか
コーラス
我らは皆自由になる
我らは皆自由になる
我らは皆自由になる いつか
コーラス
広い世界で
広い世界で
広い世界で いつか
コーラス
我らは恐れない
我らは恐れない
We are not afraid some day
CHORUS
6.
We shall overcome
We shall overcome
We shall overcome some day
CHORUS
我らは恐れない いつか
コーラス
我は打ち勝つ
我は打ち勝つ
我は打ち勝つ いつか
コーラス
≪背景≫
授業で見たビデオでは、この歌は公民権運動において、よく歌われていたということだったので、公民権運動について調べてみました。
公民権運動の歴史
アメリカ合衆国 (米国) において、黒人や他の少数派勢力 (マイノリティ・グループ) が、教育・雇用・選挙などさまざまな分野における差別に抗議し、白人と同等の権利を求めた運動。
その主要な担い手が黒人であったため、一般にはこの運動は、黒人がアメリカ社会で白人と平等な権利を要求した運動とされる。
「黒人問題」そのものは、アフリカ生まれの黒人が、アメリカに奴隷として大量に連れ込まれた19世紀から存在した。それは奴隷制廃止前とそれ以降で性格を変えた。
- 奴隷解放 (1865) 以前……制度上の奴隷身分の廃止が中心。
- 奴隷解放 (1865) 以前……人種差別撤廃と、諸権利の獲得が課題。
第2次大戦後には、公立学校における人種差別に対する違憲判決や、公民権法制定など法的には若干の進展を見せたものの、事実上の差別は消えなかったため、1960年代に入ると法の下の平等を求める運動が活発化した。
これが「公民権運動」である。
19世紀
イギリス産業革命で同国の木綿工業が大発展。原料の綿の産出国アメリカでは労働力が不足し、大量の黒人奴隷が輸入される。
1849
ヨーロッパ各国の植民地に於ける奴隷制度が最終的に撤廃される。
しかし米国やラテン・アメリカでは継続される。
1861〜1865 南北戦争
北部の勝利により、南部の黒人奴隷制に終止符が打たれる。
1865 奴隷解放
「奴隷解放宣言」はリンカーン大統領により、南北戦争中の1862年9月、「反乱州内の奴隷は1863年1月1日付けをもって自由となる」という「予備宣言」で予告され、1863年1月1日の「本宣言」により確認された。
しかし、「合衆国に忠実な奴隷州」の奴隷は除外されていた。
合衆国内の奴隷制が完全に撤廃されたのは、1865年発効の「憲法修正第13条」によってであった。
しかし南部諸州は解放黒人の政治的・社会的権利を制限するため、黒人の“浮浪”を防ぐという名目で、「黒人取締法 (Black
Codes) 」を制定。
1866〜1867
これに対し、共和党急進派は、「市民権法」、「解放黒人局法」、「再建法」などを制定して南部の旧体制復活を阻止しようとした。
また、南北戦争直後の1865年、テネシー州では「白人支配の復活」を標榜する秘密結社「クー・クラックス・クラン (KKK) 」が創設された。これは瞬く間に南部諸州に広がり、白い頭巾とガウンを身にまとった団員による黒人や黒人支持の白人に対する集団リンチが行われた。
政府は解散を命じ、1870年代に衰退。
1877〜 「ソリッド・サウス (結束した南部)」
これ以降の南部では、民主党の保守反動的な支配が固まり、民主党をしばしば苦況に追い込んだ。
それは同時に、黒人に対する圧政の継続も意味した。
1905 ナイアガラ運動
ナイアガラ滝に近いカナダ領フォートエリーにW.E.B.デュ・ボイスら黒人知識人が集まり、すべての黒人が差別反対運動を展開することを訴える宣言を発表。
米国における公民権運動の先駆であり、全米黒人地位向上協会(NAACP)の母体となった。
1909 全米黒人地位向上協会 (NAACP) 結成
デュ・ボイスが組織した「ナイアガラ運動」と、イリノイ州スプリングフィールドの進歩的白人団体を母体として、この年ニューヨークで「全米黒人地位向上協会 (NAACP=National Association for the Advancement of
Colored People) 」が結成。
第1次世界大戦
米国の保守反動化が進み、自由主義・社会主義への敵意が広まる中、反黒人秘密結社「クー・クラックス・クラン (KKK) 」が、反ユダヤ・反カトリック主義を呼号する国粋主義的反動団体として復活した。
1954 ブラウン事件判決
カンザス州では、白人校への転入を拒否された黒人生徒の父親オリバー・ブラウンが、市の教育委員会を告訴していた。
これに対し、米国最高裁は、公立学校における黒人と白人の別学を定めた州法を違憲とする判決を下した。
南北戦争以降、南部では人種隔離政策が取られており、「プレッシー対ファーガソン判決」(1896)が、設備が同等であれば黒人と白人の分離は違憲にならないとして以後、「隔離すれども平等」の原理が黙認されていた。
だがブラウン事件判決は、分離された教育は違憲であるとした画期的な判決であり、人種差別の撤廃をめざす公民権運動拡大の契機となった。
なお、全米黒人地位向上協会(NAACP)はこの判決に大きな役割を果たした。
1955 バス・ボイコット運動
米国南東部アラバマ州の州都モンゴメリーで、市営バスの差別的座席制に抗議して、非暴力によるバス・ボイコット運動が起こる。
この運動を指揮した黒人牧師マーティン・ルーサー・キング・ジュニア (キング牧師) (1929〜1968)
を指導者として、公民権運動は一気に全国に拡大する。
1957
公民権法制定。
黒人の選挙権確保のため公民権委員会設置を規定。
1960
公民権法制定。
公民権委員会の権限を強化。
1963 ワシントン大行進
キング牧師が主催した大行進には25万人が参加、公民権法成立に貢献。
この頃、全米黒人地位向上協会(NAACP)は45万人の会員を擁し、公民権運動はピークを迎えた。
なお、キング牧師の演説の前後には黒人女性歌手マリアン・アンダーソンとマヘリア・ジャクソンが黒人霊歌を歌って虐げられた黒人の復活を祈った。
1964 公民権法制定
黒人選挙権妨害の排除など、それ以前の公民権法の集大成。
同年、キング牧師はノーベル平和賞受賞。
公民権運動は広範な「ブラック・パワー」の台頭を促し、音楽・芸能の分野で黒人芸術家が活躍するきっかけともなった。
さらにウーマン・リブ (女性解放運動)
やレズビアン・ゲイ解放運動など、その後の他の解放運動にも刺激を与え、1965年以降本格化したヴェトナム戦争に対する反戦運動、大学紛争、ヒッピー風俗などを生む下地ともなった。
だが、公民権運動の高まりは一部の白人の反発も招き、反黒人秘密結社「クー・クラックス・クラン (KKK) 」も復活した。
また、黒人の中には国家建設を唱える急進勢力も現れた。 その代表は、黒人イスラム団体「ブラック・ムスリム」で、1930年にW.D.ファードが創設後、エライジャ・ムハンマドが基礎を固め、マルコムXが発展させた。
黒人の白人からの経済的自立、黒人の優位性を説き、各地にモスクを建設した。
1960年代の黒人革命の高揚期には25万人の会員がいたとされ、プロボクサーのカシアス・クレイも1965年頃入信し、「ムハンマド・アリー」と改名した。
1964
マルコムX、激な言動を非難され、「ブラック・ムスリム」を脱退。
その後、独自組織「ムスリム・モスク」と「アフリカ系アメリカ人統一機構」を設立。公民権運動との連携も意図して「黒人革命」を提唱、都市における黒人解放運動に大きな影響を与えたが……
1965
マルコムX、暗殺される。
1965 アファーマティヴ・アクション
米国で政府と事業契約を結ぶ団体に対し、「少数民族や女性など、これまで差別を受けてきた人々に対し、差別的待遇をやめ雇用や昇進、入学などにおいて積極的な措置をとるべし」との大統領行政命令が出された。この積極的な差別是正策
(優遇措置) を「アファーマティヴ・アクション」と呼ぶ。
1968 キング牧師暗殺
テネシー州南西部のメンフィスで殺される。
1969
公民権法に基き、雇用機会均等委員会が新設。
同委員会は、職場や大学における少数民族や女性の占める割合を、雇用者や大学に報告させるようになった。
差別的待遇の是正には効果があったものの、白人男性からは「逆差別」との声があがり、少数民族や女性からも「実力で入学や就職を果たしても、優遇措置のおかげとみなされる」との訴えもあり、最近は見直しを求める声が高まっている。
1969 ストーンウォール暴動
これをきっかけに、レズビアン・ゲイ解放運動が各国に波及し始める。
1970年代
公民権運動は鎮静化。
それに代わり、女性解放運動 (ウーマン・リブ)
やレズビアン・ゲイ解放運動が高まる。
1973
米国では同性愛を医学的な異常・倒錯とは見なさなくなる。
1975 第1回世界女性会議
女性解放運動は、国連がメキシコで開いた第1回世界女性会議においてピークに達する。
1976〜1985 国連女性の10年
女性解放に向けた様々な活動が展開された。
1977
ハーヴェイ・ミルクがゲイとして初めてサンフランシスコの行政執政官に選出される。
1980年代以降
米国内の保守主義の台頭に対抗して、公民権運動は再び活発化。
例えば、黒人映画監督スパイク・リー (1956〜 ) は、『ドゥ・ザ・ライト・シング』 (1989) で日常生活で起きる人種差別問題を黒人の立場から描き、『マルコムX』 (1992) では黒人解放運動の指導者の半生、『クルックリン』 (1994) では自伝的要素を含めて描く。
<参考文献>
「ハイパーリンク世界史事典」http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/dic/index.html
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