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NHKスペシャル
その時 私は母の胎内にいた 〜長崎・原爆学級〜
60分
<内容紹介>
1945年8月9日、長崎上空500mで原爆が炸裂した。爆心地から西へ500mに位置する長崎市立城山小学校は、熱線と爆風、そして放射線をまともに受けた校舎が今も残されている。原爆により、城山小学校の1,500人の児童のうち、1,400人が命を奪われた。
今年(2003年)1月、原爆学級と言われるクラスがあったことを示す資料が発見された。それによって卒業生たちは、原爆学級が作られた経緯、目的などについて初めて知ることになる。
アメリカ政府は、広島と長崎に原爆傷害調査委員会(ABCC)を設置し、放射線が人体に与える影響の研究を始め、複数の調査団を派遣した。研究の柱の一つが、成長の著しい子どもに対する放射線の影響であった。中でも、母親の胎内で被爆した子どもたちの研究に力を注ぎ、広島、長崎の体内被爆児1,608人を長期にわたって観察した。
原爆学級は、体内被爆の子どもを集めた学級と体外被爆の子どもを集めた学級が作られ、それぞれ被爆した20人(被爆児)と、被爆していない20人(対照児)で一クラスが作られた。さらに、爆心地からの距離でもわけられていた。そして、被爆児と対照児との比較による研究が進められた。入学すると卒業までクラス替えはなかった。
ABCCの研究を受け継いだ放射線影響研究所では現在、被爆者の遺伝的な影響調査にも力を入れている。ここでは、本人や家族が請求すれば情報が公開されるようになった。公開されるデータには、ABCCで受けた検査の結果や、被爆したときの状況などさまざまな内容が詳細に記録されている。
以下、映像に登場する、原爆学級に所属していた人を簡単に紹介する。
中野陽子さん 爆心地から3キロ離れた場所で体内被爆。母、千恵子さんは妊娠4ヶ月だった。 30年間ピアノの教師をしてきたが、母の死後、ピアノが弾けなくなる。息子の明さんは、陽子さんの被爆体験を聞き、原爆を真剣に考えるようになる。
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