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異文化理解最終レポート
中国と日本 今後の未来のために…
川崎真由美
教育学部生涯教育課程3年1011021508
前書き
今回,最終レポートになりましたが,授業の中ではとりあげられなかった,「中国」に焦点をあててレポートを書くことにしました。講義の中で,主に,アメリカとイラク,中東アラブ世界の様子…,などのVTRを見て,またレポートで他の様々な文献を読む中で,アメリカが今の世界にどれだけ大きな権力をもち,「なぜ,こんなこと…」と考えてしまうような政策も多く行っていることを学びました。例えば,ヴィデオの中で,あの9.11事件から,アメリカ政府が中東アラブ地域の人に対する偏見を強めるメディアのために,彼らの人権侵害が,一般市民からも犯されていること。アメリカのIMFの政策が本当に,発展途上国の人々にとって有意義なものになっているかどうかなど…アメリカの他の国に対する権力の行使は,とても疑問を感じました。一方で,日本はどうなのか…?といった疑問がわいてきたのです。
1,日中友好雄鷹会との出会い
大学内の掲示板を見た時に,「中国帰国者に日本語を教えるボランティアをしませんか?」という張り紙を見ました。日本語教師という職業が,前から気になっていたため,「中国帰国者」という文字は関係無しに問い合わせてみました。そして,帰国者の方にボランティアで日本語を教えている方にまず会って話を聞くことになりました。
日本語の勉強の手助けをするのかなあ,と気軽な気持ちで尋ねてみたら,中国帰国者の生活のあらゆる手助け,仕事,健康,そして,賠償金をめぐる裁判,などにも深く関わっていることを知りびっくりしました。全て,ボランティアでやっているのです。帰国者の方々について話してくださるときは本当に真剣なまなざしでした。大学でそのようなサークルある事を知り,それから卒業してからもずっと携わっているそうです。
話を聞くなかで,もう過去の事と考えられがちな第二次世界大戦での日本の中国への侵略でしたが,この事実のために深く傷つけられ,大変な生活をしている帰国者の方々が沢山いる事実を知りました。そして,私は,日本が過去に何をしたか,ということを,日本人として,知らなければならない と思いました。そして,ボランティアの方も話していたことなのですが,この事実を少しでも多くの人が知ることで,帰国者の理解が深まり,損害賠償の裁判がおこされたときも,迅速に進められるのではないか と考えられるのです。世論が動けば,政府は動かざるえないということです。もう,今現在、1世の方の多くは70歳ほどで,なくなられた方も多くみえます。一刻も早く,裁判を進めていかなければならない状況なのです。
つい最近NHKの「ナビゲーション」にも,岐阜市に住む帰国者の方々の暮らしが放送されていました。岐阜市の大学の近くにある管状線上に立ち並ぶアパートには,多くの在日の方が住んでいます。本当に身近なことなのです。足が不自由な帰国者1世の方は,日本で新聞配達をおこなっていたそうです。テレヴィで見た時は,掃除するときも座りながらやっていました。ボランティアの方によると,足は不自由でも,帰国者の集まりや訴訟に向けた話あいがあると,フットワーク軽くどこにでも行くよ,と話してくれました。生活は豊かといえるものではないと思いますが,本当に心からのやさしい笑顔を1世の方の奥さんが見せてくれて,「ああ,こんなに素敵な笑顔ができるんだ…」と心に残りました。帰国者の方の話は,本当に身近な話なのです。
2,帰国者の方の生活 彼らの手記を読み・・・
裁判のためには,彼らの生活がどのようなものか,といった統計をとる必要があります。そのため,岐阜県に住む帰国者の方がたに,当時の生活状況や,現在の生活についてのアンケートが配られました。私は、中国語で書かれ,日本語に訳されたものをパソコンにうつということをしました。そして、当時の暮らしがいかに大変であったか,ということが,まじまじと伝わってきました。そして,今現在も厳しい生活を強いられているということがすごく強く伝わりました。
日本が敗戦してから,残留虎児は1箇所に集められました。記述によると,冬には食べ物がなく,着るものもなく,寒くて多くの人はチフスにかかり,治療するお金はないため,春にならないうちに80%もの人が病死したり,餓死したり…その生活は大変苦しかったことが想像でできます。そして,多くの人々が,色々なところへ移動させられる中,体力の限界により,家族はなれ離れになることがよくおこりました。そして,中国では,敗戦した日本国民として,中傷,いじめを子どもたちはうけました。生活のために中国人と心ない結婚をした人もいます。日本に帰ってからも,その生活は変わらなかったようです。
日本人ですが,中国に長いこと暮らしていたため、日本語を話すことができません。そのため,日本で働く中でも,いじめ,孤独に耐えていきていかなければなりませんでした。同じ仕事をしているのに,日本で暮らしてきた日本人は自給でいうと1000円以上,在日の人は650円,汚いきつい仕事は在日の人にまわされます。不良品がでた時は彼らの責任におしつけられます。日本語ができないため,うまく自分の思いを伝えることができないのです。
日本で親族を見つけた人の中でも,日本語ができずコミュニケーションがとれないこと、40年という年月は,大きな溝を作り,理解し会うのは難しい状況になってしまいました。しかし、日本政府は彼らに日本語を勉強する機会も与えていません。そして、一度仕事を何らかの理由でやめ、もう一度仕事に就こうとすると、高齢であること、日本語ができないことの理由のために、再就職は難しい状況です。そんな中、彼らは日本政府に生活保護を求めますが、それは十分なものとはいえません。夫婦で日本に訪れた渡辺さんは、月10万の保護を受けました。今まで、日本に生活基盤があるわけではないのに、どうやってそのお金だけでやりくりできるでしょうか。渡辺さんが、月2万円の内職を見つけたところ、政府は保護の中から2万円差し引いてしまったというのです。そして、日本国籍をとるのにも、5年以上日本に住み、日本語がある程度できなければならにという規則もあるのです。もともと日本人であり、政府がおきざりにした孤児、孤児の家族に対して、日本人である証明をなぜ政府はださないのでしょうか。
3、中国帰国者問題と日中不戦
この章では、実際日中戦争がどのようであったか、中国帰国者問題が今どのようなものであるかを私の疑問とともに述べたいと思います。現在日本全国に中国から帰ってきた帰国者は1世から4世まで含めて20万から30万くらい生活しているといわれています。ほぼ帰国の希望がかなったのは、1945年の戦後から50年以上もたった1997年のことでした。この間に中国残留孤児の半数以上が、祖国日本への希望がかなわぬうちになくなったと言われています。
疑問1、残留孤児の方がたがどのように中国に渡ることになったのか、どうして中国にいくことになったのでしょうか。
当時の日本政府は軍国主義のもとで中国侵略の戦争政策を推し進めていました。1931年、満州事変により軍事占領し、「満州国」をでっちあげました。関東軍は、中国大陸の至るところで残虐きわまりない殺戮を繰り返し、南京では2ヶ月で30万人もの中国人を虐殺し、多くの地域で「殺し尽くし、焼き尽くし、奪い尽くし」中国人民にはかりしれない損害と苦痛を与えた。この記述を読み、私は、講義の中で見たベトナム戦争の様子を思い出しました。アメリカの行ったことを最近勉強していたので、そのことで頭がいっぱいになっていましたが、実際は、日本も同じようなことをしていたのです。そして、この中国侵略戦争政策を進めるための「満蒙開拓団」を送りだしたのです。しかし、実際は、開拓団とは名前ばかりで、武力を背景にして中国の農民からただ同然で奪いとった土地に入植させてしまったのです。当時の日本の農民は、凶作と不況で生活に困窮していました。
疑問2、どのような人たちが中国に渡ったか?
37年から、敗戦時まで27万人もの「満蒙開拓団」が送りこまれました。青少年だけの開拓団、東京大空襲で被災した人たちも送り込まれました。政府は、被災し、すべてを失った人たちに異国で働き、やりなおすことを進めたのでしょう。その後のなんの手当てもなしに。
疑問3、どうして、中国に以後、住まなければならなかったか。
ソ連参戦に際して、関東軍は開拓団をおきざりにして撤退してしまったのです。けっして自分の意志で残った分けではないことを知りました。その後、1972年にようやく日中国交回復が実現しました。国交回復とともに、肉親探しを以来する手紙が殺到しましたが、政府は「戦争はおわった」として、こうした訴えを真剣にうけとめませんでした。肉親調査が始まったのは、1980年代半ば頃ですでに戦後から40年もたっていました。政府は、帰国者をはじめ民間団体の批判やマスコミの声、中国政府の声におされ、帰国促進を練るという態度をとるようになったのです。
疑問4、日本での労働はどのようなものであったか?
1980年頃代後半からのバブル景気による労働力不足、製造業における現場労働力を補うために日系外国人を積極的に入国させてきました。中国帰国者も積極的に受け入れられ、低賃金で働かせていました。しかし、1990年代末ごろから経営者たちは「研修生制度」を使い、中国からたくさんの中国人研修生を連れてきて向上労働させるようになりました。その結果帰国者が職を奪われ、就職先がない状態になってしまったのです。しかし、この問題は、日本の中小企業で働く労働者と同じです。そのため、帰国者の社会的地位と生活向上のために中小企業労働者との協力し、団結して組合に結集する必要があります。その際、帰国者も日本の労働者も関係ないのです。1労働者として、権利を主張するのだろうと思います。
4、「残留孤児」国家賠償訴訟の現在
今全国の帰国者が結集して、孤児の生活をさせよう、国に正当な賠償金を要求しようとしています。東海、中部地方だけでも参加者は150名に上るそうです。そして9月24日には名古屋地方裁判所に提訴することを目標として訴訟にむけた最終段階に入っています。7月19日には裁判に対する意気込み、団結のために推進協議全体集会が名古屋で開かれました。今後は、世論形成、署名や寄付金集めなどの取り組みを行う準備を、推進協議会の方たちが推し進めています。多くの人に彼らの現在の様子を知ってもらう機会を作ることで、マスコミ、メディアが動けば、政府も動かざるおえなくなるでしょう。会の方は、「早くて3年で決着がつく」といっていましたが、そんなに長くかかるのだ・・・とびっくりしました。1世の方たちは、もう高齢で、今すぐにも現状を改善しなくてはいけない状態であるのに・・。国が、行った政策に巻き込まれた人々に対し、政府は、関係のないふりをしてはならないし、彼らの生活を保障しなければなりません。
後書き
中国残留孤児の話は親族探しなどで、ニュースを見ましたが、その実態はよくわかっていませんでした。彼らの生活を知って、まで問題は終わっていないということを実感しました。日本と中国の戦後の関係を知っていく中で、日本が行った事実は知っていかなければならにと思います。そうすることで、アジアの中の一員として認めていかれないと思う。被害を受けたものはしっかりと心に傷を残すし、そのことは家族たちに受け継がれていくから。そこで、私は日本と中国の関係ということで、今「中国人強制連行」岩波書店 杉原達著を読んでいます。
日本に強制的に連行され、厳しい労働をさせられた人々です。そして、その連行の仕方に驚きました。日本人は、彼らを拉致することを当然とする認識があったのです。なぜ、そのような認識がされていたのか。それは、残されている衝撃的な資料の記述から読み取れることができます。日本が戦時中、中国から持ち帰られたもののリストである。「鹵獲品 被服150 牛196 自転車74 石油84缶 労工897」捕らえて奪った物品の中に、人の数が並んでいるのである。中国人を物質として扱う思想が蔓延していたのです。それは、実際に軍事作戦に従事していた人の証言からもうかがえます。「捕まえた人たち・・・彼らはいわば戦利品なのです。つまり獲得した品物だと思っていました。彼らがもっていた銃弾、小銃、その他の食料、お金など最初は戦利品とよんでいました。そのうちに人間までも品物と思うようになったのです。」人を人として扱わない。まるで物同然。まったくの人権侵害が公然と行われていた事実を知りました。
2001年に香港を代表する経済紙に載せられた論説に「彼らと、日本の新しい世代は、誠実に、言葉と行動で過去の歴史に対して明確な態度をとらなければ、頭を上げて香港、中国、全東アジアとともに手を携えて美しい未来を建設することはできない。この重要な1歩をふみださなければ、永遠に先の世代の原罪を背負ったまま、東アジアの中で孤立することを避けられないだろう。」と。実際に、日本で、中国人を強制的に働かせた工場が、今、香港に進出しようとしているが、香港で経済活動をする資格があるのかと問われているのです。強制連行も、まだ、解決はしていな問題で、政府の明確な態度が求められているのです。
中国残留孤児の方がたは、今、私たちのほんのすぐ近くにたくさん住んでいます。講義の中で見た「在日韓国人の現在」のビデオで一人の女性が語っていました。「仲良くしよって言われると。嫌悪感を感じます。そうではなく、身近にすんでいる人が困っているときに助け合う精神が大切なのではないでしょうか。」と。まさにそのとおりだと思います。中間レポートの中で、アメリカについて少し勉強しましたが、少し、遠い国の問題のように感じてしまうところがありました。今回調べて、まず日本についても知らなくてはならないことはたくさんあるととても実感しました。国際交流と最近よく言われますが、「国際交流」ってなんだろうって思います。相手の国の人びとの気持ちを考えることでしょうか。過去に先祖が日本に何らかの迫害を受けてれば、日本に対する思いも複雑なものがあると思います。その気持ちを知っていないといけないのではないでしょうか。在日の方がたは、今、日本での安定した暮らしを求めて、戦おうとしています。このことをより、多くの人が知り、少しでも早く裁判が行われ、彼らが納得のいく責任がとられればよいと思います。
授業の感想
今回の講義の中でも様々なメディアに触れる機会が設けられ、今の日本とはまったく違った環境の中で生きる人々がたくさんいる現実をまのあたりにし、「私の生活はなんて平和なんだろう」と思う場面がたくさんありました。そして、戦争時の人の気持ちを知ると、なんともいえません。
講義の中で、友達がかいたレポートを読みあうことは、自分のしらない本に対する興味もわきました。問題について考える時間というのがよかったです。今後も、このようなメディアに対し、積極的に見ていきたいし、自分の目でいろいろな国を見て回りたいという感想をもちました。
参考文献「中国帰国者と日中不戦」発行日中友好雄鷹会
中国人強制連行「岩波書店」杉原達著
資料 在日の方の手記 182行
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