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異文化理解最終レポート
『韓国・朝鮮に目を向けて』
近藤 恵
教育学部生涯教育課程3年1011021517
ビデオの感想
最終レポートの本題に入る前に、講義の中で見せていただいた3本のビデオについて、それぞれ印象に残った部分の感想を述べたいと思う。
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“9.11テロ事件後のアメリカ”についてのビデオ(題名は忘れてしまった)
この事件はちょうど私が大学に入った年に起きたので、これまでもそれに関する様々な
ビデオは見せていただいたが、今回私が新たに知った事実がある。それは「アメリカ愛国法」であり、これは9.11後、テロの取り締まりを強化するために作られたもので、はっきりとした証拠がなくても、疑わしい者は全て逮捕可能なのだという。また、市民にも協力してもらい、イスラム系移民を取り締まるといったことまで行われるようになっていた。イスラム系の男性であれば、次は我が身といった状況で、何一つ罪を犯したことなどなくても、なんだかんだと理由をつけられ、強制送還にまで至ってしまうことも、頻繁にあるように見て取れた。ムーアの本の中でも、黒人男性が根拠なしに犯人に仕立て上げられる様子が書いてあったので、アメリカならやりかねないな・・と、以前ほどの驚きはなかった。しかし、これまで捜査当局が身柄拘束した1200人の中で、テロとの関わりが明らかになった者は一人もいないということ聞いて、心の底から怒りが込み上げてきた。そんな信憑性のない捜査のために、バラバラのされた家族はこれからどうしていけばいいのだろうか。母親の治療代を稼ぎに来ていた青年は、その後一体どうしただろう・・。
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「人も金も神が作った」
このビデオは、確か1年時の多文化コミュニケーションの時にも見せていただいた。二度見ても、やはり新鮮で、特に今回印象に残ったのは、「愛も不幸も金も皆で分け合う」という一説である。このようなイスラム教に魅了され、ニューヨークでキリスト教からイスラム教に改宗するアメリカ人が増えているということを、1年の講義で知ったが、今彼らはどうしているかが気にかかった。また、自分たちの信仰に合う銀行として、無利子銀行があったが、日本では考えられないことであり、これは何度聞いても驚かされてしまう。
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「変わる在日コリアン」
初めて、在日韓国人・朝鮮人についての映像を見せていただいて、日本に最も関係している問題でありながら、私はほとんど考える事がなく、知らないことが多すぎると認識させられた。「日本人でもなければ、韓国人でもない」という、薪田朴沙羅さんの言葉は、とても複雑で、私にはそう簡単に理解できるものではなさそうだ。しかし、「知らない」では済まされないと思うようになってきた。“在日の人々は、日本人と同じように税金を払っているのにもかかわらず、市民権(参政権)がない”―こういうことすら日本人は知らない人が多いというのは問題だと思う。よく考えてみると、私の身近にも在日(?)韓国人がいた。私がバイトしている和食レストランの社員の韓さん。もう一人は、高校が同じだった男の子である。どちらも、日本人と韓国人のハーフで、日本国籍を持っているのか、とか詳しい事は聞いたことはない。でも、日本で生まれ育っており、日本人そのもので私は言われるまで全く気付かなかった。言われてみれば、そうも見えるかな?といった具合である。
いずれにしても、私達にとって身近な問題であることは間違いないのだ。このことについては、下記の最終レポートで詳しく触れたいと思う。
最終レポート〜韓国・朝鮮に目を向ける〜
1. まえがき
私はこれまで、イスラムやアメリカについての本を読むことが多かった。それらについても、まだ頭の中で整理しきれていないのだが、ふと身近な国についても知りたくなり、本屋で「韓国・朝鮮」に関するものを適当に手にとり開いてみると、やはり知らないことばかりで、これはまずいと思った。日本と深く関係のある国のことについて「何も知りません」では済まされない。
そこで今回の最終レポートは、ほとんど講義では触れなかったのだが、「韓国・朝鮮」をテーマにすることにしたのだ。そのテーマを自分の中で決めていた頃に、ちょうど先ほどのビデオを見せていただけたので、本を読むに当たってより理解が深められたように思う。とりあえず今回手にとった本は、文集新書の『韓国人の歴史観』黒田勝弘著と中公新書の『在日韓国・朝鮮人〜若い世代のアイデンティティ〜』福岡安則著である。
2. 韓国人の歴史観
日韓の過去史ははこれまでもっぱら韓国側では抵抗史観、日本では贖罪史観で語られてきた。特に、日本側では「被害者の立場に立つ」という戦後的自虐史観によって、韓国側の見方に寄せることが正しいとされてきた。しかし、歴史の真実は「被害者」という一方的な立場からだけでは見えてない。こういう考えに基づいて、筆者は意見を述べている。私は真実がどれなのかも知らずに、昔日本は韓国・朝鮮の人々に対しひどいことをいっぱいしてきた、という思いは漠然と自分の中にあった。ところが、この本を読んでどこまでが本当で何が作られた歴史なのか、全くわからなくなってしまったというのが、今の正直な感想である。
「従軍慰安婦問題」と聞くと、これこそ今でも根強く残る反日感情の最も大きな要因で、日本人として謝罪せねばならない(日本政府はもう既に謝罪しているが)問題の一つである。このように思う人が大半ではないだろうか。私もそう思う。しかしこの本で、従軍慰安婦問題をはじめとする日本との過去の歴史というのは、韓国の対日コンプレックスを癒してくれる貴重な材料、精神安定剤である。とあった。対日コンプレックスというのは、韓国が日本と同じく自由民主義と市場経済という価値観を共にし、隣り合った国同士なのに、経済力に大きな格差があることから、韓国が日本に対してコンプレックスを抱いているということらしい。日本政府が既に「補償と謝罪」を行っているにも関わらず、問題が長引いている、しかも、従軍慰安婦において日本軍による強制連行的「強制」があったのかどうか、最後まで曖昧のまま謝罪し、日本としては解決済みの問題であるはずが、いまだ取り立たされている。私はこの筆者の意見で腑に落ちないところが多かったのだが、仮に、彼の主張する考えが正しいものとして、以下述べてみようと思う。
先生の講義の中で、アメリカのメディアコントロールについては、散々その恐ろしさを知り、また日本でもマスコミの影響力のすごさも普段の生活から感じているが、やはりどの国でもマスコミが人々を煽動するということはあるようだ。韓国でも、マスコミの意図的誤報に煽られた反日感情があるということなのだが、具体的にはテレビ、映画、書籍、そして慰安婦支援募金キャンペーンなど、現代の韓国社会においても、民族感情を刺激されている。慰安婦において「強制」があったか曖昧だが、韓国側は「強制」「強姦」にこだわって報道する。
日本の歴史の教科書において、「韓国に対して行った悲惨な歴史の記述がなく、美化されている」と韓国側から指摘を受けて教科書が改正されたことは、私の記憶にも新しいが、韓国の歴史教科書においても、空白になっている時代があった。それは、1940年代で、その理由としてはこの時期に目ぼしい抵抗の歴史が見当たらないからだという。この時代こそ韓国人の日本人に対する「協力」が最も進んだ時代であり、「韓国の抵抗史観」としては本当は思い出したくもない、触れたくもない時期だったからだ。そして、従軍慰安婦の本質もまた、戦時体制下の圧倒的な流れの中での「協力」現象だったということができるだろう。とまで書かれていたが、私はこれが全て事実でもないように思う。実際のところはどうなのか・・と疑問を抱いた。
学校における日本否定教育とマスコミの反日論調によって、韓国人は作られているというのだが、この本の中で、それを象徴するおもしろい現象が書かれていたので、少し触れよう。「日本はいいこともした」論争と名づけられる論争の中の、実際に日本統治時代を経験した老人と日本統治時代の体験のない青年とのやり取りである。老人が「日本はいいこともし、だから評価するべきところは評価し、学ぶべきところは学ぶべし」と言っているのに対し、青年は「韓国は日本支配によって発展が遅れた、日本に支配されなければ独自にもっと発展していた」と主張している。これは、解放後から現代にいたる日本否定教育やマスコミの反日論調による影響が、(少なからずとも)あると思わざるを得ない。
韓国人は、日本との過去に歴史について全否定である、という記述があったが、その象徴的な出来事として、“旧朝鮮総督府庁舎の破壊”は考えさせられるものがある。旧朝鮮総督府庁舎は日本支配という否定されるべき過去の象徴に見立てられ、粉々に爆破され解体・撤去されてしまった。「民族の自尊心と民族精気の回復」が目的だったようだが、支配が終わって50年も経ってから、それらを理由に破壊されたということは、その50年間は「民族の自尊心」や「民族精気」はどうなっていたのか?と思うし、建物の破壊によってそれらが回復されたのか?と疑問に思う。「よくも悪くも歴史は歴史」として大事にすべき
、という一説は私も賛成であるし、韓国人の中にもそう主張する人は多数いたらしいが、金泳三大統領は汚辱の歴史を消し去りたかったのだろう。
はじめにも述べたように、私はどちらかというと、日韓の歴史においては、日本が悪者なので罪の意識を持たなければならないとしか、考えたことがなかった。しかし、本を読んでみると、一言に「日本が全て悪かった」「謝罪すべきだ」と言えない問題のように思えてきてしまった。本当はどうだったのか、まだよく分からないが、贖罪感によって歴史を見る目が曇ってしまっては何もならない、という筆者の言葉を頭に置きながら、真実を見つけていきたいと思った。
3. 在日韓国・朝鮮人
「在日」という言葉を聞いて、どういう人を想像するだろうか。私が考えるのは“日本に住んでいるけれども、実質的には日本人ではない人”である。このように考える人は、私の他にもたくさんいるのではないだろうか。しかし、これは正解とは言えない。そして、この「在日」という表現を、日本人側は何の疑問も抱かずに使い続けている。本来「在〜」という表現は、一時滞在を意味する言葉であって、定住した外国人を「在日〜」と呼ぶのはおかしい。これは、日本社会が彼ら/彼女らの定住化に目を背け、共に社会を構成するメンバーとして認めてこなかった現われではないか?と筆者は指摘している。「帰化」によって日本国籍を取得した韓国・朝鮮人など、本来は「コリア系日本人」と呼ばれるにふさわしい人も多数いるのにも関わらず、一貫して「在日〜」と呼び続けているのは、確かにおかしい。しかし、私はこの本を読むまで、それを疑問に思ったことはなかったし、実際「在日」と呼ばれている人の中にも、様々な種類の人がいることなど、知る由もなかった。
そもそも、なぜ日本に多くの韓国・朝鮮人がいるのかというと、戦時中に「強制連行」されたり、仕事を求めて渡日したり、と人によって様々だ。はじめから日本に定住しようと考えていなかった人も、朝鮮半島における社会的・経済的混乱や民族分断状況といった事態のなかで、日本に留まることを余儀なくされてしまった。彼らに対して戦後の日本政府は、「外国人」としての権利も否定し、日本国籍をもった日本国民としての権利も否定し、参政権まで奪ったという。日本政府は、“いづらい思いをさせる”施策は行ってきたが、“帰りやすくする”ための施策は行わなかった。という記述で胸が痛くなるが、日本にいてほしくないと思っていたのならば、もう少し頭を使って後者の施策を行うのが適切だったろう。それを行わずに、ただ彼らの権利をどんどん奪って、社会全体で差別してきたのは非常に自分勝手な行動であると思う。
この本では“若い世代のアイデンティティ”ということで、「在日」2世3世と呼ばれる人々について、焦点が当てられている。彼らは、日本で生まれ育った世代なので、日本語の会話、読み書きに不自由する人はいないが、逆に韓国語や朝鮮語ができない人は大勢いる。そして、圧倒多数が本名とは別に「通名」=「日本名」を持っており、それを使用しているので、意見本当に日本人そのもので、気付かれずに生活している人もいっぱいいるようだ。実際に、先ほど述べた私の知り合いも、言われなければ全く分からなかったのだから。「通名」を使用する最大の理由は、日本人による差別を回避するためであり、日本人でないと、就職先がほとんど限られたものになってしまうからだという。ある3世の人の実話では、逆に「私は韓国人です。」と隠さずにいた方が、イジメは受けないと答えている人もわりと多かったので、イジメについては人によって時代によって地域によって異なるよだが、就職においては依然として、厳しい状況にあることは事実らしい。同じような成績の日本人の友達と、同じところに履歴書を送っても、自分にだけ返事がなかったり、電話で「うちではちょっと・・韓国の方は・・」と言われることも実際としてあるようだ。
それでも、1世の時代から比べるとだいぶその差別はなくなった方だと言うから、昔の差別は相当なものであったのだろう。
若い世代において、イジメなどはだいぶ緩和されたといっても、自分の存在について葛藤している人々は多い。“祖国の朝鮮人そのもの”にはなり得ない。かといって“日本人そのもの”にもなることができない。という自分の存在を受け入れられないのである。
「在日」小・中・高校生のうち、朝鮮学校に通うのが13%、韓国学校に通うのが1%、日本の学校に通うのが86%ということであったが、そもそも、私は韓国学校という学校が日本にあることすら知らなかった。朝鮮学校についても、実際日本の学校とどう違うのか、知らなかった。朝鮮学校に通った人の体験談を読んで、少しイメージは湧いた程度である。日本語を使うと叱られるから使わなかったとか、反日教育がちょっと行き過ぎていて、真実をかなり大袈裟に伝えているので、日本人を見る目が変わり「この野郎!」という感じになったとか、いずれにしても日本の学校に通っていては身につかない反日感情が身につくということなのだろうか。電車の中や、駅でチマ・チョゴリの制服を着た朝鮮学校の生徒を見かけることがあるが、彼女らも日本人に対してそのような感情を持っているのだろうかと、急に思い立った。今まで、気にしなかったことが気になるようになってきた。とにかく、まだまだ知らないことばかりなので、これからも調べていく必要がある。
4. あとがき
今回、最終レポートとして、私ははじめて感国・朝鮮についての本を読んだが、自分が抱いていたイメージと異なる部分も多く、正直本当のところはどうなのか?と、疑問に思うことが多かった。まだ2冊の本しか読んでいないので、偏ったものの見方になってしまった気がする。今回得た考え方も頭に置きつつ、もっと様々な角度から書かれた本を手に取る必要があるように思った。そのうえで、もう一度見つめ直す問題だと思う。
この講義では、いつものようにたくさんのビデオを見せていただき、よい刺激を与えてもらった。そして、みんなのレポートを読んだり、ビデオを見た感想を聞いたり、それぞれが抱いた疑問を聞いて、より一層自分の考えも深めることができた。最終回に聞いた曲も、この講義を受けていなかったら、知らなかっただろう。アメリカ人の中に、チョムスキーやムーアのように、アメリカのブッシュ政権に対して疑問を投げかける活動をしている人々がいることに、いくらかの明るい光が見える。これら、世界の問題について、まだまだ調べ不足で、はっきりわからないことばかりので、今後研究していくのが楽しみである。 (総行数178行)
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