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2002年9月16日
この街 その海 あの大地
〜核兵器のない地球を〜
60分
制作 イメージ・クラフト
<内容紹介>
1945年8月に広島と長崎に原爆が投下され、その年のうちに広島で約14万人、長崎では約75万人が死亡した。この原爆投下についてアメリカは、「戦争を終わらせるために広島・長崎への原爆投下はやむを得なかった」としている。しかし、アメリカの専門家はこれを否定し、「原爆投下は必要なかった」と話す。
広島に住む中村美代子さんは、2歳になる長男を背負って洗濯をしているときに被爆した。被爆後、隣のベッドで「痛いの、痛いの」と言っていた息子の声が忘れられないでいた。
長崎の被爆者、松谷英子さんは、3歳5ヶ月の時に爆心地から2.2kmの地点で被爆した。屋根瓦で頭に怪我を負い、今でも右半身が麻痺している。体の障害は放射線によるものであるという国の認定を求めて裁判と闘っている。
1954年のビキニ水爆実験では、アメリカ政府は原爆の大きさを知っていながら島民を非難させなかった。1954年3月1日、島民がまだ寝ている朝早くに実験は行われた。その日の昼過ぎから島民の健康に異常が見え始めた。皮膚がやけどのように腫れ、かゆみを伴った。また、下痢や吐き気の症状もでた。実験の3日後に米軍がやってきたが、検査のみして治療は行われなかった。
ロンゲラップ島では、コントロールと呼ばれる被爆していない人(統制群)を水爆実験後に島に戻し、被爆したロンゲラップ島の人と比較しながら、汚染された環境に住むときに人体に及ぼす影響等を調べる研究が行われた。
朝鮮戦争(1950.6〜1953.7)の時、核兵器への危機は頂点に達した。核兵器絶対禁止のストックホルムアピールが呼びかけられ、世界で5億以上の署名を集めて原爆投下を阻止した。
日本では、第五福竜丸のビキニ被爆をきっかけに、日本の原水爆禁止運動は巨大なうねりとなり、全国民に広がった。署名は3,000万を越え、その世論の力はアメリカの実験に協力する政府の態度を変えた。
旧ソ連では200万人、セミパラチンスク市では50万人が被爆している。セミパラチンスクにある実験場で、旧ソ連は約500回、広島型原爆3,000発分の核実験を行った。冷戦の拡大と共に実験場の機能も拡大していった。
人口3,500人の村、カイナル村はチェルノブイリの2.5倍の被爆線量である。この村では、1988年から5年間で263人がガンで、36人が白血病で死亡している。村人の90%が貧血である。精神異常を持って生まれた子どもも多い。実験後は、さまざまなところで異常な事態が発生した。牧場では、首が一つで頭が2つ、目は4つで耳は3つの牛や、足が6本であったり8本の羊が生まれた。
アメリカでも核実験がたくさん行われた。バスター・ジャングル作戦では、合計119回の核実験が行われ、参加した兵士には、後にガンや白血病など何らかの放射線障害が表れた。全米で40万人の兵士が被爆させられたが、ネバダ州の住民にも大きな被害が及んだ。核実験は、風向きや気象情報が非常に重要であり、政府はあらゆる手を尽くしてラスベガスを守ろうと配慮した。そこには遊びに来た金持ち層の人々がたくさんいるからだ。そして、その反対方向のネバダ州が風下となるときを選んで実験が行われたのだった。
<一口感想>
セミパラチンスク州立病院には、被爆した子どもがたくさんいる。2歳の子が白血病で一年もの間入院していたり、生まれつき足の骨が変形していてまっすぐ歩けない女の子もいる。姉も妹も肺がんで亡くなり、母親は脳と腸のガンで別の病院で闘病しているため、一人で白血病と闘っている子どもがいる。その子の流した涙には、心が締め付けられる思いだった。(玉野)
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