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映像資料「アメリカとイラク〜蜜月と対立の20年〜」の内容紹介にある※1〜※3は、映像の中では内容紹介にあるように言われているが、それは真実と異なるように思われる。そこで、『ラムゼー・クラークの湾岸戦争 いま戦争はこうして作られる』(ラムゼー・クラーク 中平信也訳 地湧社1994)より引用し、その真実を明らかにしたい。
※1 1990年7月24日、国防総省は、米海軍の軍艦6隻がアラブ首長国連邦(UAE)軍とともにペルシャ湾南方海域においてシュワルツコフ中央軍との共同演習に「急遽」参加した、と発表した。7月25日、「ウォール・ストリート・ジャーナル」は、この演習はイラクとクウェート間の緊張に直接関係していると報じた。この記事は、イラクに無関心をよそおっていたブッシュ政権の声明と喰い違うものであり、この点で米国では珍しい記事の一つである。これ以上のことは湾岸危機の始まる90年8月2日までまったく報じられなくなる。
90年7月25日、すなわち、米国がUAEとの湾岸演習を発表した翌日、サダム・フセインはグラスピー米国大使を執務室に呼び、クウェートとの紛争に対する米国の姿勢を最終的に確認しようとした。この日は、イラクの戦闘部隊がクウェートの国境に終結し始め、シュワルツコフは中央軍で対イラク戦争の準備を進めていた。グラスピー大使は、サダム・フセインにこう断言していた。
「イラク・クウェート間の国境紛争などアラブ同士の紛争について正邪を判断するつもりはまったくない。(国務長官の)ジェームス・ベーカーはこの指示を徹底するよう国務省スポークスパーソンに指示している」。
大使が伝えたこの内容は、米国の公式な政策である。大使は前日の7月24日に国務省から電信を受け取っており、そこでは、「アラブ間」の紛争に米国は「立場を明示しない」旨を繰り返すよう明確に指示されていた。
湾岸戦争の終わった1991年3月21日、グラスピー大使は、このようなサダム・フセインとの会談内容を否定している。上院の外交委員会で証言した大使は、イラクがクウェートとの紛争を力づくで解決しようとするなら、米国はこれを容認することはない、と繰り返しサダム・フセインに警告したと述べた。また、米国がどのように反応するかを理解する上でサダム・フセインはあまりに「愚かだった」と述べた。
ところが、1991年7月、サダム・フセインとの会談に関するグラスピー大使の国務省宛電信が上院で発表されると、大使の証言はかなり捏造されており、イラク側の発表の方が正しいことが判明した。(pp.53-54)
映像では、「グラスピー米国大使はフセイン大統領と面談し、これからも良好な関係を保つことを伝えた」とあるが、つまりこれはイラクがクウェートに侵攻しても、アメリカはそれに干渉しない、侵攻してもかまいません、ということを意味していたのだ。しかし、いざイラクがクウェートに侵攻すると、それを口実に湾岸戦争を始めたのだった。
※2 米国政府は、イラクがクウェートに侵攻したから湾岸戦争が起こったと主張する。挑発もしない隣の小国にサダム・フセインが警告なしで侵略を行ったので、米国はこれに対処したにすぎない、ブッシュ政権はこう力説し、米国民はこのような説明を受けた。だが、米国の湾岸諸国へのかかわり合いを注意深く見てみると、湾岸戦争の主要な責任は、イラクにではなく米国にあることが分かる。この戦争は、イラクの最初の軍隊がクウェートに侵入するはるか以前から米政府により計画されていたのである。
米国政府は、まずクウェートの王族を利用してイラクに侵攻を行わせるように仕向け、次にこの侵攻によりイラクに対し大規模な攻撃を行う大義名分を得ようと考えていた。そして、攻撃によりイラクを崩壊させることで、湾岸で支配権を確立しようと考えていたのだ。(p.28)
映像では、「イラクがサウジアラビアの油田地帯にまで侵攻する可能性があると判断したアメリカは、イラクとの蜜月に終止符を打つことを決断した」となっているが、実はイラクがクウェートに侵攻するかなり前から湾岸戦争突入の計画は練られていたのだということがわかる。
※3 ブッシュ大統領は、湾岸戦争の期間を通じ、イラクの人々に反乱を呼びかけた。この呼びかけは頻繁に報じられたが、1991年2月15日のスピーチで大統領は次のように述べている。
「流血の事態に終止符を打つもう一つの道がある。イラクの軍隊と国民が自らの手で事態の処理に当たり、独裁者サダム・フセインを追放することである。」
米政府はクルド人の苦境に多大な関心を抱いているかのような大芝居をうったが、実際は1970年代の時と同じように、自分の利益のために信義など無視して停戦後にクルド人に反乱を起こさせようとしたのである。この反乱の呼びかけと秘密援助の結果は、死と飢えと数千人にのぼる行方不明者だった。これに、何万人もの難民が加わった。(中略)
イラクの南部に集中するシーア派も反乱を呼びかけられ、悲惨な結果を迎えた。米国の戦略にとって、シーア派の蜂起の成功はクルド人の反乱成功よりも危険だった。シーア派が蜂起に成功すれば、シーア派を国境とするイランの介入を招くことになり、スンニ派のクウェートやサウジアラビアに脅威を与えることになるからだ。両国の王族は、イラク南部でイランと提携したシーア派原理主義者の勢力が強力になることを非常に恐れていた。(中略)
イラク内部の反乱が米国によって周到に準備されていたことは明らかである。この人命軽視はおぞましいほどである。米政府はクルド人やシーア派の成功をまったく考えていなかった。つまり、米国はこのような少数民族をイラク弱体化のために信義を無視して利用しただけなのである。(pp.95−97)
湾岸戦争でイラク18州のうち14州が陥落し、残りの4州陥落に向けてシーア派がアメリカに支援を要求したが、アメリカはこれに応えなかった。映像ではこの理由を「イラクをつぶすことでイランが無防備になってしまうこと、シーア派が反米意識の高いイランとの関係が深い」としているが、実は始めからシーア派の成功など望んではいなかったのである。引用にあるように、イラク弱体化のために利用しただけであったのだ。
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