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アメリカとイラク 〜蜜月と敵対の20年〜
75分
<内容紹介>
東西冷戦中の1970年代、アメリカはトルコ、イラン、パキスタンを支援し、共産主義勢力を封じ込める防衛ラインを敷いた。
しかし、イランが革命によって反米国家に転じたことによってこの政略は破綻する。この勢いが周辺諸国にも広がる恐れを感じたアメリカは、イラクに注目した。当時のイラクは政教分離を目指すフセイン政権が誕生し、政教一致を掲げるイスラム革命に反対しており、アメリカとイラクは共通の利害を抱えていたのだ。
1980年イラン・イラク戦争が勃発(〜1988年)。アメリカは、偵察衛星から得られるイラン側の機密情報をイラクに渡すなど、積極的にイラクを支援した。1984年、アメリカはイラクとの結びつきをさらに深め、貿易が活発化した。
アメリカから輸出される項目に、ドュアル・ユース(二重の使用目的)と呼ばれる物があり、イラクに輸出された物のリストには、Virusという文字があった。アメリカ国内の研究所が明らかに生物兵器の原料となる物質を輸出していたのだ。イラクの医療業界が民間研究に使うという条件であったが、その一部は細菌兵器の開発に使われた。
アメリカはイラクを支援することでイラン・イスラム革命の拡大を押さえ込むことに成功する。しかし、戦争を通じてイラクに大量破壊兵器を開発する力を与えることになってしまった。
1990年7月25日、グラスピー米国大使はフセイン大統領と面談し、これからも良好な関係を保つことを伝えた(※1)。その8日後の8月2日、イラクはクウェートに侵攻する。圧倒的な軍事力でクウェートを制圧したイラク軍は、さらに南のサウジアラビアの国境に迫る勢いであった。イラクがサウジアラビアの油田地帯にまで侵攻する可能性があると判断したアメリカは、イラクとの蜜月に終止符を打つことを決断した(※2)。
国連が武力行使を容認する採択をした上で、1991年湾岸戦争が始まった。イラク18州のうち14州は陥落した。残りの4州も陥落寸前であり、シーア派はフセイン政権打倒の支援をアメリカに要求するが、イラクをつぶすことでイランが無防備になってしまうこと、シーア派が反米意識の高いイランとの関係が深いことから、アメリカは支援要求に応えなかった(※3)。
湾岸戦争後、アメリカは査察を通してひたすらイラクを封じ込めようとした。戦争終結から2ヶ月後、UNSCOMによる査察が開始された。予告なしで行う査察の様子を偵察機が上空でうかがい、抜き打ちの査察にイラク側が兵器を隠す姿を写真に収めるという作戦(シェイク・ザ・トゥリー作戦)が行われた。
元査察官スコット・リッター氏は、この作戦をCIA(米中央情報局)の協力を得て実現したと証言。査察が進む中で、CIAが本来のイラク武装解除という目的から逸脱して動いていると感じるようになったと言う。また、UNSCOM委員長バトラー氏から、イラクと衝突を起こすようにと言われた。
<一口感想>
湾岸戦争後、国連はイラクに対して経済制裁を行った。原油の輸出を禁止し、イラクは輸入に頼っていた食料の底がつく。物価も数千倍になり、医薬品も不足した。戦後6年間に、病気や栄養失調で亡くなった乳幼児は40万人を超えたといわれる。
映像の中では触れられていないが、内容紹介にある※1の部分にはアメリカの「クウェートに侵攻しても良い」というイラクへの了承が暗示されている。※2、※3についても、映像では触れられていない真実があり、紙面の都合上ここでは説明しきれないので別紙にて解説する。
(玉野)
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